いや、もうすでにそうなってしまっている、と言っても間違いないでしょうね。
以上の五点はすべて、重大な瑕疵であることはおわかりでしょう。
でも最大の問題は、そんな企画が世の中に受け容れられている、この時代の空気なのかもしれません。
「本屋さんが一番売りたい本」と名付けられた本を、反発もせずに言われるがまま読者が買い、売り上げが一番になる。こうした盲信的な追従がファシズム的な空気を醸成します。
日本を戦争に導いたのは軍部の暴走だと言われていますが、私はむしろ、軍部の暴走を黙認し、場合によっては支持した、流されやすい無自覚な大衆のせいだったと思うのです。
善意あふれる市井の人たちが、こちらに行きましょう、という声に従って一斉に無批判に向かったのが大東亜戦争だったわけです。
本屋大賞のキャッチコピーに異議を唱えただけで白眼視されてしまう同調圧力でさえ、これほどのプレッシャーになるのですから、国家を挙げて邁進している戦争に、市井の一個人が反対の声を挙げるなんて、とてもできなかったでしょう。
そんなファンタジーみたいな話が今、大ヒットしているのもおめでたい話です。
主人公に対して行なわれた集団的な抑圧を今、本人たちがしているということに誰も気付かないのですから。
結局、これだけの情報化社会になっても無思考な大衆はちっとも変わらない、ということなのでしょう。少なくとも「本屋大賞だから読みました」などと言う人は、「私は本選びにポリシーはありません」と宣言しているに等しく、読書人としては恥ずかしいことのはずですが、そもそも読書人の矜恃なんて、なくなってしまったのでしょう。
それにしても本屋大賞を批判するってこんな大変なことだったんだ、とつくづく感じました。これなら東大教授を批判して名誉毀損裁判をされていた頃の方が、まだストレスがなかったですね。書店員の集団圧力はいまや、批判した一作家に恐怖心を持たせるくらい、強大になっているわけです。
こんな風に傲慢に振る舞っていたら、書店員はまず、多くの作家の反感を買うでしょう。そうした感情が読者にも伝わって、やがては本屋大賞は市民から愛されない文学賞になってしまうでしょう。そう、かつて本屋大賞が仮想敵としていた、直木賞のように。
いや、そんな予兆はすでに始まっているのかもしれませんよ。
本屋大賞の本質は、文化的な企画ではなく、多数派によるマーケティング戦略です。
ただし、目指すところはマーケティングと文化の意図的な混同にある。
その象徴があのキャッチコピーには込められていたのです。なるほど、これではおいそれと看板を下ろせないでしょう。よく考えれば、実に素晴らしいコピーです。
本屋大賞の精神を露骨に、もとい、きわめて正直に表現しているわけですから。
ただし、単に選ばれてしまっただけの、本と作家に罪はありません。
というわけで和田竜さん、受賞おめでとうございます。
実は私も今回の受賞にちょっぴり貢献しています。週刊新潮での連載が延びに延びたのを快く許容したのは、次に連載予定だった私なのでした。正直言えば、作品が書けそうになかったので、その延長は私にとってもありがたいことでしたので、恩着せがましく言うつもりはまったくありませんけど。
また一連の文章は、和田さんや、和田さんの作品を貶める意図はまったくない、ということはさすがにご理解いただけるかと思います。