2014.04.03
2014:04:03:16:49:51
自由を滅ぼすのは常に、非寛容と独善である。
もっとも、問題は本屋さんばかりにあるわけではありません。そうした発言にすかさず公式に反駁するような反射神経と反骨精神を持った、直木賞作家がひとりもいなかったのにも^U然、呆然としたものです。そのくせバックヤードでは百田さんの悪口の嵐だなんてことが、文壇から縁遠い私の耳にまで入ってくるとなると、何をか況んやです。
「本屋である以上、どんな本でも売ってやる」という気概を隠し持ちながらも決してそれを軽々しく口にしないというのが、私が考える正真正銘プロの書店員さんです。
そんな書店員さんが定年で引退する前日、「私が一番売りたかったのは、実は海堂さんの本だったんだ。ちっとも売れなかったけどね」と、著者の私だけに言い残し店を去る。
し、しぶい。
そんな書店員なんて、いません(笑)。いや、ひょっとしたらいるかも。
いや、きっとどこかの書店にいると信じたいですね。
本屋さんが売りたい本は、「本屋にある本すべて」であり、それが唯一の公式見解のはずです。それは「警察官が憎むのはすべての犯罪である」、あるいは、「医者が治したいのはすべての患者である」というのと同じくらい、当たり前のことだと思うのです。警察官に「一番逮捕したい犯人」がいたり、医者が「一番直したい患者」などと発言するのは、個人レベルではあってもいいのでしょうが、警察官全般、あるいは医師全般、という集合名詞を主語にして大々的に宣言するとなると、おかしなことになってしまいます。
今回のツイッターの反論には「あんたの本だって平積みしてもらっているじゃないか」というものもありました。それって何だかなあ、と思います。
平積み、店頭大展開を目指すのは、作家や版元にとって当然です。それはサッカー選手がレギュラーを、そして日本代表入りを目指すのと同じことです。
でも本屋大賞は、レギュラーを目指して頑張っている選手を尻目に、特別扱いされているように見えて仕方がないのです。
文芸世界をサッカーに譬えると(作家だからサッカーなどという質の低い駄洒落を考えたわけではありません。断じて)、選手は作家が書いた書籍です。そして読者は観客です。書店はサッカースタジアムで、書店員はサッカー場の職員です。
本屋大賞とはサッカー場の運営者が、特定のチームの一部の選手だけをヒイキするようなものです。もちろんサッカー場の職員だって、個人的には応援する選手がいて当然です。でも、サッカー場職員の制服を着て仕事をしている時は、自分の感情を持ちだしてはいけません。それは公私混同ですから。
そう、それは職業モラルとして、やってはいけないことなのです。
さしずめ、前回書いた本屋大賞にうつつをぬかす書店員とは、自分のヒイキチームの応援を、スタジアムの職員の制服を着てやっている暴走サポーター、あたりではないでしょうか。
作家にとって書店は心安らぐ大好きな空間ですが、同時に鎬を削るバトルフィールドでもあるのです。そんな風にして努力して立つ競技場なのだから、せめて公平な競争原理くらいは担保してもらいたいのです。
さて、こうした状況になれば、今年の受賞式では少なくない数の書店員さんが、私の主張を頭に入れて集うでしょう。そこで私の問題提起に対して無視するか、あるいは非難するか。あからさまに非難するならまだマシで、無視することは、私にとって、というだけでなく、本屋大賞関係者にとっても最悪の選択になるでしょう。
だって、自分たちの意に沿わない意見は無視するという、傲慢な体質を浮き彫りにしてしまうことになるからです。
私のお願いは、「本屋大賞のコピーは無神経だから変えて欲しい」という、一点だけです。そして多くの関係者が受賞式に集うなら、その場に集まった方たちの総意でコピーを変えることくらい簡単なはず。主催者は手弁当のボランティアだそうなので、今回の受賞式で参加者ひとりひとりが新しいコピーを考えて集い、その場の多数決で決めるくらいやれるでしょう。本屋大賞の目的が素晴らしいなら、コピーを変えたくらいで壊れるはずもないでしょうし。
とここまで書いて、名案を思いついてしまいました。