あの取材の目的は何だったのでしょう。肝心の本人に質問せず、勤務先に取材するというのは報道倫理として個人のプライバシー侵害につながる問題行為だと思います。社会的意義が本当にあったのか、今でも疑問に思うと同時に、社会部の新聞記者って人の見えない裏側ではこんなえげつないこともやるんだ、と大メディアに対する不信感を持った出来事でした。
一年前、民事裁判報道の際の一連の報道も、同じ無神経さの匂いが漂っていました。単なる個人損害賠償紛争である民事裁判なのに、報道ではまるで刑事罰を受けた容疑者のような扱いでした。そうした記事や報道に対する検証は近著『ゴーゴーAi』の中できっちり行っているのでご一読を。
ちなみに『ゴーゴーAi』は科学ジャーナリスト賞へ応募しています。ずばり大賞狙い。自らを批判された時、ジャーナリズムはどう振る舞うか、楽しみです。日本のジャーナリズムの鼎の軽重を問うことにもなると思いますので。うふふ。
それにしても権力監視がメディア本来の最大の役割のはずなのに、権力の走狗になってしまうなんて、メディアは矜持をなくしています。今やメディアは第四の権力。そして権力者の無自覚な偏向は、市民社会にとって大変危険なことなのです。
メディアもモザイク縦割り社会なので、私はなかなか綺麗に評価がわかれています。たとえば新聞社の方たちには、どの社も文化部の記者にはとてもよくしてもらっています。そして社会部の記者にはかなり悪意を持たれています。同じ新聞社なのに不思議ですね。
まとめます。
寄付するもしないも自由。寄付を公言するもしないも自由。それを批判するもしないも自由。
ただし「寄付をするなら黙ってやれよ」と言う人の心情はとても卑しい。
それは尊い行為を貶めるためだけに行われる、悪意の発言だからです。
善意は悪意によって蝕まれてしまう。なので早めに対応しなければなりません。
「男は黙ってサッポロビール」は、かつての美徳でした。しかし、そうした美徳に身を投じた結果はどうだったでしょう。