これは納税者としてはっきり抗議したいと思います。すべての納税者が腹を立てるべきでしょう。こうやって無駄なカネを使いまくるから、「税金が足りない」「ならば増税しよう」「これまでルールのなかったところも新たに作ってこっそりむしり取ってしまえ」ということになる。そんな安易な税務署の姿勢を見せられると、健全な納税意欲は減退してしまいます。
日本を愛する一国民としては、とても哀しいことですね。
寄付金だって同じこと。きちんと使われなければ、寄付しようという意欲を削いでしまう。被災者に使ってもらえるなら喜んで出すけれど、寄付を集めた人たちの飲食代に消えるなら、ばかばかしいので寄付なんてしたくない。だからこそ、寄付をしたということは公言した方がいい。それはきちんと使われなかった時に監査できる権利を持てる可能性につながるからです。
「寄付をするなら黙ってやれ」という心情の人々には官僚体質の人々も数多くいて、そういう人々にとって、「黙って寄付」の方が都合がいい。それは人様から預かった金を自分のほしいままにできるからです。そうした心情は哀しいけれども今の日本のベースになっています。
その一例が病理学会の重鎮が厚生労働省の委託を受けて行った公募科学研究であったということは、研究結果が科学的に見て正当に実施されていない、カーゴカルト・サイエンスに堕した報告であるという事実から、レトロスペクティヴに証明されてしまった事実です。しかもそうした批判を受け止めず、議論もせずに司法に訴えるなど、民主主義的な市民社会の根本を破壊しかねない行為に思えます。それは司法という公的暴力機関を使って言論の自由を侵食しようという、エゴイスティックな行為に思えます。
無駄に使われることが予想でき、結果的にみても無駄に使われてしまった税金の責任を、官僚は、そして研究者は取ろうとはしません。
「寄付をするなら黙ってやれよ」という心情は、「税金は黙って納めろ」という精神を増長させ、こうした問題を座視することにつながり、結果的に日本社会を無責任に、そして途方もなく卑しくしてしまう。
黙っていると、怠惰と悪意にいいようにされてしまうのです。
私はこれまで節税対策もまったくせず、「黙って」納税してきました。ただし、きちんとしなければならないと思い、デビューした年から税理士さんにすべて任せ、適正に処理してきました。私のように体制批判をしていると、いつか必ず税務問題で攻撃されるだろうと予想していたからです。
案の定、二年前に読売新聞千葉支社のある記者から私の職場に、私の納税がきちんと行われているか、所として把握しているかという「取材」がありました。私が法医学や警察捜査を批判していた頃ですね。何しろ社会部記者と私の批判対象(官僚とか警察とか法医学者)は仲良しなので、その記者はこうした「取材」を軽い気持ちでやったのでしょう。