「寄付をするなら黙ってやれよ」という発言をする人は社会に対し、大変貧しい気持ちを抱いているわけです。
誤解しないでほしいのは、「寄付をしない人を責めている」のではありません。寄付は自由行為ですし、人それぞれの事情もあるでしょうから。でも「寄付をするなら黙ってやれよ」という発言は、他人の「行為」を攻撃しています。その発言は自分の貧しさを撒き散らしているだけでなく、良き意思さえも阻害している、と指摘しておきます。
寄付をするもしないも自由。ならば寄付したことを公言するもしないも自由。
そして、寄付するという行為を素晴らしいと思うなら、寄付した人を称賛するのが市民の義務でしょう。なぜならその行為は社会を豊かにすることは間違いないからです。
あえて偉い順に並べれば、次のようになるでしょう。
1位 黙って寄付をする。これが最上なのは確かです。
2位 公言して寄付をする。いい行為をしているわけですから順位は高い。
3位 寄付はしないけれども、寄付した行為を称賛する。
論外 黙って寄付をしろ、と言って非難する。
寄付は、自分が苦労して稼いだカネを出すわけですから、こうして使いましたと公言することは、稼いだカネが苦労したものであればあるほど、誰かに知っていてもらいたいと思う、人として素直な心情です。
そして寄付を公表した人を、「かっこいいなあ」と素直に仰ぎ見ることは、素晴らしいと思いませんか? 少なくとも、私はそう思って他の人の寄付の記事を読んでいます。でもその時には、自分がそうやってみられている、という意識はほとんどありません。
だって、一度出してしまった金は、もう自分のものではないんですから。
実は寄付をする人は、案外自然にできてしまうものです。なぜならふだんから寄付をしている、という心情で我慢していることがあるからです。
それは税金です。
今、私は全収入の50%を納税しています。ということは執筆した印税も、講演料も半分は国に寄付しているようなものだ、と思っています。
納税は国民の義務だというのとは、少し違うと思います。国民の義務なら、誰もが均等に払うべきでしょう。累進課税というシステムは、多く稼いでいる人は多く支払えというものです。でも、社会の公的システムの利用度合いは、誰でもだいたい同じはず。
ということは累進課税というシステムの本質は、社会に対する一種の寄付だということです。
税金をむしり取られるのはげんなりだけど、こういう時に役立つお金は自分の意志でぽんと出したい、と思うわけです。あれだけの短期間で驚くほど巨額の寄付金が寄せられたことは、日本国民の民度の高さを現していますが、同時に税金を集める国に対する痛烈な批判の裏返しでもあるわけです。
きちんと大切に使われるのであればカネを出しても惜しくない、という人たちがこれだけいるのに税収が足りないのは、それだけこの国家に徳がないからでしょう。
もしも国に信頼があれば、寄付は国にされることでしょう。でも、そうはなりません。
国民が感じているとおり、国民の徳は高いが、今の官僚国家は卑しい。それが今の日本の現状のようです。
収入の半分を黙ってもっていかれるのはなんだか解せない。でも実はそれだけならそんなイヤな気分にはなりません。そうして払わされた税金を官僚たちが実に無造作に、無神経に使ってしまうことを見聞すると、本当にげんなりしてしまうのです。