海堂尊 - 第四回『このミステリーがすごい!』大賞(『このミス』大賞)大賞受賞作『チーム・バチスタの栄光』の著者

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2014.10.20 2014:10:20:15:56:49

さて、感動の最終回は後書き風に。

 最後に、せっかくですのでふだんあまり語らない文学についても少々。まず、以前ちらりと触れた、ビッグプロジェクトについてのお知らせ。

 12月、『このミステリーがすごい!』大賞の大賞受賞作家のアンソロジー・ミステリー短編集『このミステリーがすごい! 四つの謎』が出版されますが、そこに参加しました。

 デビュー作『さよならドビュッシー』が映画化し、多作で現在13本もの連載を抱える『このミス』大賞作家のエース・中山七里さん、デビュー作『完全なる首長竜の日』が映画化し、文芸界で評価の高い乾禄郎さん、デビュー作『生存者ゼロ』が50万部を突破した安生正さん、そしてデビュー作『チーム・バチスタの栄光』が映画化・ドラマ化され、映像化作品多数でシリーズ累計1千万部を超えた私、海堂尊(負けず嫌い・笑)というこのミス四天王(今、勝手に名付けた)そろい踏みの重量級作品で、さらなる極秘プロジェクトも進行中です。3年前の『このミス』大賞受賞式でオファーがあってからの気の長い企画でした。

 私は加納・玉村シリーズで、「カシオペアのエンドロール」という鉄道ミステリー。お楽しみに。

 

 この四人には共通点があります。大賞受賞者で授賞時に高評価を受けている、受賞作がベストセラーになった、そしてツイッターをやっていないことです。最近の受賞者の間では生ぬるくも微笑ましいツイッターの交流が盛んですが、デビュー前からツイッターを始めるなど、自分の未来を安売りしているようなものだと考えた方がよろしいかと。

 文章は誰でも書ける。でも文章でお金をもらえるのは一部のプロだけ。ツイッターは平等なツールで優れた文章家も、文章にまったく意を使わない人も同等に発信できてしまう。つまり作家のアドバンテージをなくしてしまうツールなのです。

 しかし、みんなよく喋る。実績のないヤツほど囀る、どうでもいいことばかり喋る、というのが、ツイッターの法則です。実はこれは「文学」とは真逆のベクトルです。

 まあ、「『このミス』同好会」で楽しくやりたい、というのであれば問題ありません。趣味なんですから。これはプロ作家としての評価ですので冷徹です。そして恐ろしいことに編集者は、私よりもっと冷徹なのですよ。以上、後輩へのアドバイスでした。

 

 文学界に関して批判したのは、本屋大賞と渡辺淳一先生の選考委員としての姿勢のふたつくらいです。興味深いのはどちらの件でも、「実は私もそう感じていたんです」とこっそり同意を示してくれた知り合いの編集者が大勢いたことです。「じゃあ、ブログの賛同者リストに載せて公表しましょうか」と提案すると、思い切り首を振って、「それだけはご勘弁を」と言うのですが。

 どちらも社会批判としては小さなことと思うのですが、それがそんな風に抑圧されている状況では、文学界が閉塞してしまう理由がわかる気がします。今の文学界は「自由闊達」という言葉からかけ離れている感じがします。

 

 また、渡辺淳一先生が提唱された「情動小説」が偏重されているのも昨今の文学界の傾向です。いろごとのよしなしごとを書き綴る作品は文学界では重要な柱ですが、それがここまで偏重される時代は異常です。情愛小説の興隆と女流作家の台頭は、渡辺淳一先生の功績が大きいと思います。これも、文学界の外側からやってきた部外者だから見える光景なのですが。それでも、そうした潮流はほんの短い時代のことです。

 

 1950年代には「青年の情熱を支えるに耐えるものがあるとしたらそれは、恋愛と政治である」と言われていました。革命家は詩人を目指した人も多い。政治と文学は互いを必要とし合っていたのです。その後、文学から政治が脱落し、政治は数字と欲望の具現化に走り抒情性を失い、社会は殺伐としていきました。

 政治とは本来、社会愛の発露で、だからこそ文学と融合したわけです。ところが今は政治と文学は水と油のように乖離している。拙著『イノセント・ゲリラの祝祭』は政治小説の一変種ですが、現在の文学界でこの作品を文学的に論じた書評家は皆無でした。

 

 本書をまとめるにあたり改めて過去の海堂ニュースを読み返し、どうやら私は一度は文学界の頂点に立ったことがあるようだと気づきました。まあ一瞬のことですが。

 それは『ジェネラル・ルージュの凱旋』が映画化されアマゾンで1位と2位を取り、09年上半期のオリコン文庫本部門でも1・2位を取ると同時に、当時文庫化されていた8冊すべてが30位にランクインした頃です。

 シリーズ完結した際に1千万部という数字を達成できたのも嬉しいことでした。でもいつも言っているように、売れる本は一冊だけ、と考えているので実感は薄いのですが。

 売り上げでのトップになれば客観的にわかりますが、文学界での評価というものは主観的なのでトップ云々という判断はできないと思っています。その意味では誰にどのように評価されるかということが重要で、筒井康隆先生と公開対談した際、「『チーム・バチスタの栄光』は百年後に残る作品だ」と言ってくださったのが私にとっての勲章です。

 文学とは山脈、連峰のようなもの。私のたどりついた頂点から見えば脈々と、遙かなる山頂が続いているのが見える。それは先人が到達した山頂で、私にとって未踏の地、ですので頂点に立ったというのは限定的な意味にすぎません。それでもまあ、ひとつの頂点であったということは多くの人も同意してくださると思います。

 

 私が次にいかなる山頂を目指すのか、と問われれば、もう頂点はめざしません、と答えるでしょう。もともと登山みたいに努力を要することは嫌いで、海でぷかぷか浮いている方が好きなのです。ですので文学の海を深く潜る方向へ向かうことになるでしょう。

 そう、頂点には立つのは一度でいい。広大な大海原をゆったり泳いでいる方が性に合っています。

 おかげさまで書きたいものを、書きたい時に、書きたいように書かせていただけるという、破格の待遇をいただいております。まあそれはおそらくは期間限定のことで当然、未来永劫続くわけもないでしょう。いろいろと制約や雑音も多い身ではありますが、今は満ち足りています。

 そんな私がこれから書く作品はおそらく、4割の声高な批判と1割の賛同、残り半分は、声にならない小さな満足の気持ちに包まれるものになっていくでしょう。

 いや、そうなるといいなあ、という願望ですね、これは。

 

 てっぺんは見晴らしがいいけれど、決して居心地がいい場所ではないので、いずれは降りていくべきです。でも一度は立ってみた方がいい。すると世の中の景色が変わります。

 よく似た景色を、以前も経験したことがあります。それはAiの世界です。ただしそれは頂点ではなく、未開の地・フロンティアへの探索行でした。

 水平の極点と垂直の極点の両方も経験したので、楽しい日々でしたし、また、そうしたことをこうして記録にとどめることができたのも幸せです。だからこれからは大海原でぷかぷかと、クラゲのように漂いながら生きていこうと思います。

 とまあ、こんな謙虚さのかけらもないことをぬけぬけとブログに書いたりするから、「海堂さんって冷静に話を聞くとずいぶんひどい目に遭わされているのに、なんか、かわいそうって思えないんですよね」(編集Sさん談)なんて言われてしまうのでしょうけれど。

 

  そんな風に見えてしまうのも結局は、文句を垂れながらも、私は日本が素晴らしい国だと思っていて、未来は前途洋々だと信じているからです。そんな能天気野郎だから、かわいそう、なんて思われる余地がなくなってしまうのでしょう。

 それなら文句ばかり垂れているのはおかしくね? と思ったあなた、それは大きな誤解です。

 前途洋々だと思っているからこそ、ここさえ直せば、あるいはここをこうしたらもっとラクしてよくなれる、だからそうしようよ、と言っているのです。そして次のステップで、そんな問いかけに逆らう行動をする人たちに、攻撃をしかけただけです。

 そう、私のモットーのひとつは「最小努力で最大効率」なのでした。

 

 ひょっとしたら私は、ひとつの歌を歌い続けてきただけなのかもしれません。

 講演会でも語ってきましたが、私が物語を書いたのは、あるいは書けたのは、「人は誰でも一冊の物語が書ける」という言葉をどこかで耳にしたからです。幼い頃の私の願いは「馴染みの二葉書店の棚に自分の書いた本が一冊、ひっそりと置かれている」というものでした。

 今、私の本は書店の棚に置かれています。私の願い事は叶ったのでしょうか。

 実は二葉書店はずいぶん前に閉店してしまったので、私の願い事は永遠に叶いません。

 

 最後に自著からの一節を。この言葉の前半をデビュー作で書き、後半を見つけ出すために多くの作品を書き連ね、シリーズ最終作でようやくたどりついた、そんな文章です。

 

 願いごとは叶う。ただし半分だけ。それも願いごとを忘れた頃に。(『ケルベロスの肖像』より)

 

「物議を醸す」をモットーに、実際物議を醸し続けた医師兼作家のよしなしごとを綴った取り扱い注意の野放図ブログ、これにて終幕です。長い間のご愛読、ありがとうございました。

 

                       2014年10月16日   海堂尊

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