死因が社会に呈示されなければ、この運転手の運転ミスだという誤解は、常につきまとってくるわけで、否定はできません。
この運転手さんの死因が、事件に関係するものであれ、そうでないにしろ、死因は捜査と無関係に社会と遺族に呈示されるべき情報だというのが、よくおわかりでしょう。
係争中の案件で、死因情報の開示は控えた方がいい、と考える弁護士もいるようです。しかし係争中の案件でも、いや、係争中であればなおさらのこと、死因情報は中立的に公開されるべきでしょう。なぜならそれは、弁護の方向に関わらず、ひとつの真実として存在するものだからです。医学的真実なのですから。
解剖でも死因がわからないこともある、ということをあちこちで話し続けた結果、新聞報道も少しずつ変わりつつある。
『中2死亡、昨年6月から暴行、容疑者「しつけのため」』(2011/10/24 毎日新聞)といういたましい虐待死の事件報道がありました。「愛知県警の司法解剖によると、M君は胸、背中、腕、首に内出血があった」とし、最後に「司法解剖でM君の死因は特定できなかったという」という一文が加えられていました。これは死因報道としては画期的です。これまでこうした情報は記載されませんでした。なので解剖が万能だという誤った印象を、社会に与えてしまっていたのです。
しかしこうした誠実な発表と報道が、司法解剖の限界を市民に理解させるために有用であるといえます。
この症例、Aiを実施していたかどうか、報道からはわかりません。で、少なくともAiを実施すれば、虐待の証拠となる情報を得られた可能性があります。
虐待の証明のひとつに、古い骨折跡を画像診断で見つけることがあるからです。それは虐待死の定義に組み込まれている所見ですが、これを見つけるのは、解剖では困難なのです。つまり虐待死の診断には、解剖でなくAiがファーストチョイスになるべきだというのは、世界的な医学常識なのです。
だから虐待を疑いながら、愛知県警の司法解剖がAiを実施していなかったとしたら、それは虐待死の定義を知らなかったゆえの無知のためであり、そのために事件を証明する大切な証拠を失ってしまったことになる。
そうした風にしてしまったのは、ひとえに司法解剖を司る、法医学者のAiへの無理解、勉強不足に他なりません。解剖至上主義で、Aiという用語はとんでもない、などという、枝葉の批判ばかりに終始しているから、こんな大切なことを実施できないのです。
もしAiを実施していたら、そのことをきちんと公表し、報道しなければおかしい。公表しなければ、実施していないと思われても仕方がない。
それは社会コンセンサスなのですから。